1707年、ルアン・プラバーン王国の分離・独立に追随する形で離反を企て、ヴィエンチャン王国から独立しようとする領主も現れたが、1709年のムアン・ナコンの領主プラプロム・ラーサーの反乱で蜂起軍が制圧されて以降は特に目立った離反活動は見られなくなった。サイ・オン・フェが1730年に死亡した後、王位を継承したオン・ブンは1770年、活動が活発になったトンブリ王朝(シャム)のタークシン王に使節を派遣し、同盟を試みた。この同盟は両国の内政状況から歓迎されるものではあったが、思い描いているほど円滑な進行は叶わず、互いの想いにわずかなズレが生じていた。
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それが具現化するのが1773年のルアン・プラバーン王国のヴィエンチャン王国侵攻である。このとき、ビルマとシャムの間で戦争状態にあったにも関わらず、オン・ブンは駐屯地が近いという理由でビルマに対し、援軍を要請している。チエンマイにおいてこの要請を受けたビルマ軍司令官ポー・スパラはその旨をルアン・プラバーン王国側へ通達し、戦わずして両国の争いを平定し、権力下に置くことに成功している。敵対するビルマとのこうした動きに対しシャムのタークシン王は疑心暗鬼に陥り、ヴィエンチャン王国を信用しない表面上だけの外交を行うようになった。その後、1777年、ビルマがシャムへの攻撃を行い、シャムの勝利に終わるとその足でヴィエンチャンへ侵攻・同都を占領し、ヴィエンチャン王国を属領とした。
ルアン・プラバーン王国
1713年、当時の王キン・キッサラートの死亡により、王位はオン・カムが継承した。その後1723年にはキン・キッサラートの弟インターソムの謀反によりオン・カムは王位を剥奪され、チエンマイに亡命している。その後ルアン・プラバーン王国ではおおむね平和な状態が継続し、1771年、スリニャ・ウォンサーが王位を継承するとヴィエンチャン王国がビルマとシャムの対応に苦慮している状況を好機と見るや、王都ヴィエンチャンへの侵攻を始めた。しかし上述の通り、ポー・スパラの策により軍を撤退せざるを得ない状況となった。
その後1777年、シャムによるビルマおよびヴィエンチャン王国への反撃が開始されるとシャム側へヴィエンチャン王国へ攻撃可能な旨を伝え、支援をしようとしたが、先の一件でビルマと通じていたとみなされたルアン・プラバーン王国もまた1778年にシャムに占領され、シャムの属領となった。
チャンパーサック王国
チャンパーサック王国は1713年、アユタヤ王国タイサ王の計略によりニョート・ケーオらの独立宣言によって独立を果たし、新しい国王としてシーサムット女王を擁立した。その後シーサムット女王が1738年に死亡するとサイニャ・クマーンが王位を継承。しばらく平和が堅持されたが、1779年、ヴィエンチャン王国とルアン・プラバーン王国を属領下に置いたシャムの侵攻を受け、他の二国と同様にシャムの属領となった。
シャム属領下時代
ラーマ1世王座像ラーンサーン三王国を属領下に置いたシャムで1782年、武将カサットストックによる反乱が発生し、タークシン王は王座を追われることとなった。新しく王座についたカサットストック(ラーマ1世)は王都をトンブリから対岸のクルンテープ(バンコク)へ移し、トンブリ王朝は終わりを告げ、チャクリー王朝の時代が始まった。このような政権交代の時期にあってラーンサーン三王国に対してあまり手がかけられない事情もあり、カサットストックは三王国に対し、大幅な自治権を認めた。
ヴィエンチャン王国
シャムのヴィエンチャン占領後、カムクートへ逃亡していたオン・ブンが1781年に死亡したため、タークシン王はヴィエンチャン王国の新しい王としてナンターセン・ポンマラオを擁立した。ヴィエンチャン王国は1787年頃よりシェンクァンの領土を巡り、越との対立が激化していく。この対立はゲーアンのカイサーンによって越に勝利がもたらされたが、シェンクァンの領土を巡っては以降双方の意見が対立しあう、不安定な地域となってしまった。
その後ナンターセン・ポンマラオの死後は弟のインタウォンが王位を継承し、1798年から1799年にかけてシャムで行われたビルマ残留軍掃討作戦へ参加した。この時司令官に任命された副王チャオ・アヌウォンを高く評価したシャムは、1803年にインタウォンが死亡するとチャオ・アヌウォン(セタティラート3世)を王位に就かせた。
チャオ・アヌウォンは1807年に新王宮の建立、1808年にタート・パノム橋の建設、ノーンカーイにシー・ブンファン寺院の建立、1824年にセーン寺院の建立など当時の土木技術の粋をこらした建築物を多く残している。
1827年、チャオ・アヌウォンは王室会議を開き、シャムの不安定な状況を鑑みた上での独立作戦を提唱した。この作戦は副王らの反対にあったが、実施することで決議され、密かにバンコクへの派兵を進めていたが、これを察知したルアン・プラバーン王国や、作戦自体に不満を持っていた副王ティサらによる作戦の漏洩によりシャムに感づかれる形となってしまい、失敗に終わっている。チャオ・アヌウォンは逃亡を計ったがシャム軍に逮捕され、獄中で死亡した。シャムはヴィエンチャン王国の再攻を懸念し、王都を徹底的に破壊せしめたため、事実上1828年にヴィエンチャン王国は滅亡した。
ルアン・プラバーン王国
1791年にスリニャ・ウォンサーが死亡すると、インタソーム王の第二子であるアヌルッタが王位に就いた。ヴィエンチャン王国との紛争が原因でアヌルッタ王は1792年に一時シャムに逮捕されたが、4年後には復位し、1817年に死亡するまで王位に就いた。その後はマンタトウラートが即位、1827年、マンタトウラートはヴィエンチャン王国のチャオ・アヌウォンから独立の決意を秘密裏に打ち明けられるも、この情報をシャムへ流し、ヴィエンチャン王国の独立を阻んだ。1852年、チャンタラートが即位した翌年にシェントンで民衆の反乱が勃発。これを制圧したことをシャムより高く評価され、1779年にシャムに押収されたプラバーン金仏像がルアン・プラバーン王国へと返還されている。
ルアン・プラバーン王国の統治はおおむね平和に行われていたが、1872年より、突然複数のホー族による来襲が始まった。ホー族の襲撃は2年間に渡り続けられ、シップソーン・チュタイ地方、ムアン・テーンなどルアン・プラバーン王国の北東部を占拠されるに至った。1874年にはいったん沈静化したが、翌年より再びシェンクァン、ヴィエンチャンなどでホー族の襲撃が行われている。これらの襲撃はシャム軍による掃討作戦により一応のおさまりを見せたが、1885年に再度ヴィエンチャンが襲撃に遭い、1887年にはルアン・プラバーン王都が襲撃された。この襲撃により当時国王であったウン・カムとその家族は危機に晒されたが、フランス副領事館のオーガスト・パヴィにより救出され、パークライへの逃亡に成功している。
長きに渡ったホー族の反乱はルアン・プラバーン王国の住民に初動が遅れたシャムへの不信感を植え付け、逆に国王を救出したフランスへの信頼感を産み出す契機となった。
チャンパーサック王国
チャンパーサック王国では1791年、シェン・ケーオによる反乱が発生し、当時の国王サイニャ・クマーンが死亡するという事態が発生している。この反乱はシャム軍により鎮圧され、バーン・シンターに駐屯していたチャオ・ファイナーが反乱鎮圧の功を認められ、新しい国王に就いた。その後、1813年に王位に就いたチャオ・マー・ノーイと副王タンマキッティカの間で権力闘争が勃発したが、シャムによる副王解任で大きな被害はなく混乱は収まった。
チャオ・マー・ノーイの時代に超能力者を自称する高僧サーが、住民を扇動してチャンパーサック王都を占拠するという事件が発生。チャオ・マー・ノーイはこの事件がきっかけで逃亡先のバンコクで死亡し、1819年、チャオ・アヌウォンの息子であるチャオ・ニョーが新しく国王に就いた。チャオ・ニョーは城壁の修復や税制改革などで敏腕を発揮し、名君と謳われたが、1825年、父親チャオ・アヌウォンが起こしたヴィエンチャン王国の独立戦争に賛同して挙兵したためシャムによって逮捕され、獄中で死亡した。
チャオ・ナーク王の1837年にチャンパーサックは大火事に見舞われたため、王都をバーン・ヒートホート郊外に転移させた。その後コティタムトーン王の1863年に再び遷都が行われ、メコン川西岸、ポーンポックとラコーン寺の間に移された。この時の遷都により作られた都が今日のチャンパーサックの基礎となっている。
フランス植民地時代
帝国主義時代になると、ヨーロッパ列強がアジア各地を次々と植民地にしていった。ラオスもその例外ではなく、植民地獲得競争に巻き込まれた。1885年、清仏戦争の結果、ベトナムに対する宗主権を清は失った。すでに、フランスは、1863年には、カンボジアを保護国化していたので、植民地化をめぐる次の標的を内陸国ラオスに定めた。
1893年、タイ王国との間で、ラオスをめぐり、仏泰戦争が起こると、フランスはタイを圧倒し、1904年には保護国化を完了し、フランス領インドシナが完成した。
第二次世界大戦中、ラオスは日本の占領下に置かれたが、1946年、ラーオ人の民族主義者の手によって、再度、植民地政策を推進しようとするフランスからの独立を宣言した。インドシナ戦争の期間に、ベトナム共産党は、ラーオ人の独立を支援するために、パテート・ラーオを組織した。1954年、ジュネーヴ協定に基づいて、ベトナムと同様に、ラオスも独立を達成した。
ラオス王国の独立
ラオス王国独立時の国王シー・サワンウォンラオス王国は1947年7月19日にフランスとの間に締結されたフランス・ラオス協定により名目上独立を果たしたが、フランス連合の枠内のみに限られたもので、外交および国防の決定権はフランスに握られた状態だった。これにともない、行政機関や軍隊、警察といった政府機関の確立と整備が最重要課題として取り上げられたが、60年という長い植民地期間によってそれらの課題を担当しうる人材の確保は困難を極めた。
また、他の課題として取り上げられているものに国語の問題があった。これはフランス植民地時代の公用語はフランス語、一般大衆の話すラーオ語、三王国時代に独自の発展を遂げた発音の違いや不足している語彙をどのように補うかという難しい問題であり、王国政府は1949年11月27日に正字法の基本方針と国語のあり方について検討する検討委員会を設立させた。
一方、ラオ・イサラ亡命政権では親仏派とベトミン共闘派の立場の相違が決定的なものになり、袂を分かつことになった。プーマ殿下らはヴィエンチャンでラオス王国政府創設に参加し、フランスとの友好関係を築くピブン政権を発足させたのに対し、スパーヌウォン殿下らは1950年8月、パテート・ラーオ政府を樹立し、抗仏ゲリラ闘争を宣言した。1951年にはカンボディア、ヴェトナムのホー・チ・ミン一派の抗仏組織らと三者会談を行い、「インドシナ合同民族統一戦線」を結成した。
ヴェトナムおよびラオスのこうした状況から、フランスは植民地支配の終結を判断。1953年10月22日にラオス王国は完全独立した。ラオス王国ではプーマ首相の下、「第一次経済・社会開発五ヶ年計画」が実行に移され、国づくりへの取組みが本格的に始動した。
1954年5月8日からインドシナ停戦会議がジュネーブで開催され、ラオス王国領土内からの全ての外国軍隊の撤退、パテート・ラーオ軍の北部二県結集、および軍事的中立が合意、採択された。インド、カナダ、ポーランドの三国によりこの実施内容の監視を行う団体(ICC)が設置された。
また、インドシナ停戦会議の結果から王国政府とパテート・ラーオの間で、(1)パテート・ラーオ軍の一部を王国政府軍に編入する事。(2)フォンサリ・サムヌーアの両県の行政権をパテート・ラーオから王国政府に返還する事。(3)パテート・ラーオは政治団体「ネオ・ラーオ・ハクサート」(NLHS)を設立、改組し、王国政府との連合政府を樹立する事。の3点が合意された。
民族解放戦争時代
1956年7月4日、王国政府とNLHSの連立政権樹立に向けた合意をきっかけにカタイ内閣の総辞職、次いで8月10日にプーマ殿下を首相とする連立政権が発足した。さらに翌年12月8日にはサムアヌ県の行政権が、12月18日にはフォンサリ県の行政権がそれぞれラオス王国に返還された。
1958年5月4日サムヌアとフォンサリでNLHSが初めて参加する補欠選挙が行われ、新設21議席のうちNLHSは9議席を獲得、NLHSと同盟した平和中立党が4議席を獲得し、左派が議席の過半数を得た。これはNLHSが唯一参加した選挙であった。しかしこれに危機感を募らせた米はラオスへの経済援助停止を表明、右派は総辞職を決行し、次代首相に親米派のプイ・サナニコーンを指名した。
これを受けたNLHSは親米派首相の元での入閣を拒否、プイ内閣の単独・親米内閣が発足した。こうして、ジュネーブ国際会議で合意された連合内閣はわずか9ヶ月で幕を下ろした。プイ内閣発足後、アメリカはラオスへの経済援助を再開した。ラオスにおけるアメリカの影響力強化を懸念したNLHSは、プイ内閣への反政府行動を宣言、やがて、王国政府軍に帰属していたNLHS派兵士が集団脱走していくという事態が発生、各地で衝突や抗争が勃発し始めた。
1959年5月11日、王国政府はヴィエンチャンに滞在していたスパーヌウォン殿下らNLHS幹部らを逮捕、ポンケーン刑務所へ収監するという強硬手段に出た。7月16日には王国政府軍とNLHS軍の衝突事件が起こり、プイ内閣はNLHS側に政権ポストを空けて交渉の余地を持たせたが、こうした態度は弱腰であるとして、10月30日、国益擁護委員会(CDNI)によるクーデターが発生。プイ内閣は崩壊した。1960年4月24日、NLHSを除外しCDNIが管理する形式選挙を実施、CDNIは全59議席中37議席を獲得。翌月、CDNIが結成した民主社会党のソムサニット内閣が発足した。ソムサニット内閣の誕生によりラオス王国はさらに親米に偏り、アメリカの短期間かつ過剰な援助は国内の経済状況にインフレを齎した。
1960年5月23日、住民らの手を借り、ポンケーン刑務所からスパーヌウォン殿下らNLHS幹部が脱走。反政府活動は次第に激化していった。
1960年8月8日、王国政府軍第二大隊長コン・レー大尉によるクーデターにより、首都ヴィエンチャンが占拠された。コン・レー大尉はプーマ元首相に対し組閣を要請、元首相はNLHSとの連立政権を発足させた。アメリカは対ラオス王国援助を停止し、タイ王国もアメリカの要請で国境封鎖を断行した。これらの経済制裁にラオス王国は困窮し、ソビエト連邦に援助を要請、ソビエト連邦との国交を樹立させた。ソビエト連邦にとってはこの要請は東南アジアへ進出する契機となり、緊急救援物資の輸送などを積極的に行った。
アメリカはコン・レー大尉らのクーデターから避難していたノヴァサン将軍ら右派を援助し、軍の再編成を進めた。将軍らはサヴァナゲートからアメリカとタイ王国の援助を受けて北進し、1960年12月16日首都ヴィエンチャンを奪回した。その後将軍はチャンパーサック家出身のヴン・ウム殿下を首相に推し、ヴン・ウム内閣が発足した。NLHS側は1960年末から再び軍事行動を開始し、1961年1月1日シェンクァンを占領、その後ルアン・プラバーンやフォンサリなどといった地域を次々と占拠していった。こうした事態を受けアメリカ合衆国大統領ドワイト・D・アイゼンハワーは第7艦隊に警戒態勢を発動するなどしてNLHSへ圧力をかけたが、NLHS軍はその後もサムヌア、ヴィエンチャン、ルアン・ナムター、カムムアン、サヴァナケートなどの各地域に勢力を拡大していった。
NLHSの軍事行動はタイの安全性を脅かすとしてタイ首相サリットはSEATOへ派兵要請をしたが、加盟国内で調整がつかず、実現しなかった。サリットはSEATOを痛烈に批判し、アメリカへ頼る形へ方向転換する。1961年5月16日から開催のジュネーブ国際会議ではラオス王国の問題の解決が議論され、ラオス王国は本会議を受け、チューリッヒに国内派閥間会合の場を設けた。その後1962年6月12日にジャール平原での三派会談で、プーマ首相による新連立政権樹立が合意された。ジュネーブ国際会議はこの合意を受け、「ラオス王国の中立に関する宣言」を7月23日に採択した。ラオス王国内に駐在していたアメリカ軍及びヴェトナム軍は撤退し、ようやく平和が訪れたかに見えたが、半年後1963年中立派要人のケッサナ大佐とキムニ外相が何者かに暗殺されるという事件が発生、これにより中立派の勢力は弱体化・分裂していった。同年4月にはクープランシット将軍によるクーデター未遂が起こった。連立政権への不信を増したNLHSは閣僚を引き揚げ、以後政権は中立派はプーマ首相のみの閣僚は全て右派となり、発足当初の三派連合政権としての機能を完全に失った。
1965年7月にはNLHS不参加の形式選挙が実施され、政権は南部保守派が主導権を握った。NLHSは中立左派と連携を強化し、この頃より呼称を「人民解放軍」と改めた。1967年末頃サヴァナケートで本格的活動を開始し、翌1968年にはジャール平原、ルアン・プラバーン空港、ムオン・スイ基地などを占領した。NLHSは1970年3月の声明で、アメリカ軍の完全撤退・総選挙実施・臨時連合政府樹立・休戦を訴えたが、王国政府側はヴェトナム軍が駐留する限りありえないとしてこれを退けた。このためNLHSと中立左派は軍事行動を激化させ、同年3月以降、サムトーン基地、アトプー、サラワンを制圧した。
この後、1972年ヴェトナム和平に関するパリ会談を受け、王国政府とNLHSとの交渉で、2月21日「ラオスにおける平和の回復および民族和解に関する協定」(通称ラオス和平協定)が調印され、ラオス王国における王政維持を含む枠組みを定めた政治体制について合意がなされた。王国政府とNLHSは解体され、合同で設立した暫定国民連合政府によって、行政機関の改組が実施されていった。
1975年5月1日には首都で住民2万人規模の大規模な反右派デモが起こり、鉾先を向けられた右派閣僚五名が辞職したほか、高級官僚、軍人、警察官の相当数が辞職または国外に脱出した。さらに5月21日にはアメリカ国際開発局(USIDA)ビルがデモ隊に占拠され、暫定国民連合政府がUSIDAの閉鎖を示唆すると、アメリカ政府は5月27日撤収に合意した。こうした情勢を受け、暫定国民連合政府により12月1日ルアン・プラバーンで開催された全国人民代表者会議において、シー・サワーンワッタナー国王の退位が承認され、王制の廃止と共和制への移行が宣言、スパーヌウォン最高人民議会議長兼大統領を頭に置くラオス人民民主共和国が誕生した。